【連載】文房具百年 #49 「レトロ下敷」
下敷について
小学校では当たり前のように使っていた下敷。骨董市で見つけた古い下敷を眺めていて、ふと疑問が湧いた。
「下敷はいつからあった?」
それに下敷は欧米にはないらしいということも思い出し、今回は下敷について書くことにした。だが、下敷は広告もまず見かけないし、カタログにも掲載されていない。新商品やヒット商品が出る類のものでもないので、調べても大した情報が出てくる気がしない。
情報がないなら、想像を膨らませて見ようか。ということで、手元にある下敷から何がわかるか、改めてよく見てわかったことを紹介することにした。
下敷のエリアと歴史
以前下敷について調べたときに、どうやら欧米では下敷を使っていないらしいことを知った。ただ、曖昧な情報だったので今回改めて調べてみると、「私たちの異文化体験」※1という書籍で下敷について紹介されていた。
これは留学生の方たちがアメリカで体験した文化の違いについてまとめられたもので、文房具については下敷についてくらい(その他、大学の名前のグッズや、左利きが多いという話も少し文房具に関係する)だが、なかなか面白い。
ある留学生の方が、留学先に下敷を持っていくのを忘れ、文房具店に探しに行ったが見つからなかったことから、下敷がアメリカでは使われていないことに気づく。そして周囲の人へのインタビューや独自で調べた結果を書いている。
それによると、アメリカで下敷は使わない。アメリカだけでなく、ヨーロッパでも使われていない。その理由として、ノートを取るときにアルファベット且つ、筆記体で書くので、文字を書く時にさほど力を入れておらず、下に写ることを心配していない。また日本人ほど「きれいにノートを書く」ことに頓着していない、等が挙げられている。
では下敷は日本独自のものなのかというと、そうでもなく南米や中国、韓国、台湾などのアジア圏では下敷を使っているという。やはり角ばった文字を使う国では、力を入れて書くので、下敷が有用ということなのだろうか。
では、日本はいつから下敷を使っていたのか。なお、ここでいう下敷は、書道の下敷ではなく、ノートに挟む下敷に限定しよう。実は書道の方の下敷についても、友人を通じて調べてもらったが、全く情報が出てこないそうだ。
ここで「ノートに挟む厚紙」を持っていることを思い出した。罫線の引いてある厚めの紙で、文字をまっすぐに書けるようにするためのものだ。
*「新案鉛筆筆記用台紙」実用新案登録11972号、中村由松
これがそうだが、罫線はまっすぐでも、印刷が大胆に曲がっている本末転倒さに笑ってしまう。だがこの「罫線のある厚紙」は明治42年に実用新案登録がされており、且つ登録者は日本で最初に学習帳を作った中村寅吉氏の父、中村由松氏である。(参考:本連載の「学習ノートとノートのようなもの」https://www.buntobi.com/articles/entry/series/taimichi/007992/#anchorTitle1)
さらに、実用新案の説明を読むと「帖の任意の部分に挿挟して筆記を行い以って次頁以下に筆痕を生せさらしむへくなしたる構造」とある。この紙は「下敷」という名称ではないが、「字が写らないように」するための道具でもあることから、下敷きと言っていいだろう。そして特許データベースで調べた限り、これは最初期の下敷に当たる。学習帳を最初に作った人物の父が、下敷の特許を最初にとったのだとすると、なかなか興味深い。
ちなみに大正以降、「下敷」という言葉が特許上にも増えてくる。その説明を読んでいくと、大正時代にはノートに挟む下敷は一定使われていたようだ。その素材としては「セルロイド」と書かれているのが目立つ。
「大正時代のセルロイドの下敷」とは、とても魅力的なものだし、歴史をたどるという意味合いの順番からすると、ここで是非紹介したいところだが、残念ながら持っていない。
持っていなくて資料もないものは紹介できないので、そこは飛ばして昭和以降の下敷を見て行くことにする。
ローマ字綴り
下敷は、勉強で使われることが多いため、その面に教育的な情報が印字されることが多い。自分が持っている古い下敷について、その印刷されている内容から時代特定ができるだろうか。
下敷は素材もいろいろなので、素材によっても時代が分かれるのではないかと思い、まずはブリキの下敷を見てみることにした。
ブリキの下敷は3枚持っている。サイズはどれもA5で、作り方もよく似ている。同時期に複数メーカーが作るくらいの量は使われていたのだ。印刷されているのは、ローマ字表記や九九、地図など教育的な内容だ。もう少し詳しく見ていこう。
まず、一番左の「クヌギ下敷」だが、緑の面を表とすると、表にはローマ字の表記が書かれている。だがよく見ると少し違和感がある。「ふ」の表記が「HU」なのだ。ということは現代で一般的に使われているヘボン式ではない。
この辺りを調べると何か出てきそうだ。
早速ローマ字表記について調べると、ヘボン式は江戸末期に紹介されたが、その後日本の五十音図の規則性に合った表記として「日本式ローマ字」が1885年に発表された。そのため以降はヘボン式と日本式が並立する状況が続いたようだが、その状況を改善すべく、昭和12年に「訓令式ローマ字」が作られた。
なお、この下敷はローマ字表記表の欄外に「ヘボン式はshi(シ)、chi(チ)、tsu(ツ)、fu(フ)、ji(ジ)と綴る」と書かれているので、ヘボン式と並立していた日本式の可能性が高い。
では、訓令式と日本式の違いは何かを調べると「ぢ」が日本式は「di」、訓令式は「zi」となるようだ。改めてみると「di」となっているので、これは日本式と特定できる。となると、訓令式ができた後で、日本式の表記の下敷を作るのは考えづらく、これは昭和12年より前の下敷と推測した。
余談だが、促音(小さい「っ」で表示される詰まった音)の例に丁稚(でっち)があり、そんなところにも時代を感じる。
ブリキの下敷のその他の情報
ほかのブリキの下敷も見て行こう。真ん中の青い表面にローマ字表記が書かれている下敷だが、こちらのローマ字はヘボン式なので、ここからは時代特定はできない。また、裏面も九九や複利・単利の計算式、長さや重量の換算表で、こちらも時代の特定は難しい。
ただ、下敷の「四大便利」ポイントが書かれており、2番目に「紙ノウラニ鉛筆ノ跡ガツカヌ」とある。つまり、日本で下敷が使われるようになったのは、鉛筆の跡がついてしまうことが気になり始めたからの可能性が高い。だとすると、鉛筆は普及して学校でも一般的に使われるようになった大正時代以降のものだという推測ができる。そしてそれは特許で下敷という言葉で申請がされ始めている時期と一致している。
最後のブリキの下敷を見よう。これは地図が印刷されており、朝鮮総督府、台湾総督府の表示がみられる。
朝鮮総督府は、1910年から1945年まで、台湾総督府は1895年から1945年までと幅が広いので、ここからの時代の特定は難しい。裏面は九九と換算式とヘボン式のローマ字綴りなので、こちらも具体的な年代を出すのが難しい。
そのためかなりざっくりとした推測になるが、戦前であることは間違いない。そして素材がブリキということは、物資がまだひっ迫する以前であると想像できる。同じブリキの「クヌギ下敷」が昭和12年より前ということもあり、この地図の下敷も昭和10年前後のものというのが妥当な気がする。
ファイバー製の下敷
ブリキの下敷の次はファイバー製の下敷について見て行こうと思うが、情報がない分細かいところを見て行ったら、それなりの長さになってしまった。以降は次回としよう。ファイバー製の下敷とは紙よりしっかりしており、弾力があって、表面もつるつるしている。そして大体赤茶色をしている。
私はこの質感が結構好きだ。薄くて軽いので、今もあってもいいのではないかと思うこともある。ファイバー製の後は紙からセルロイド、ビニールへと続く。
あまり大した情報は出てこないが、古い下敷を眺めて、こんなものがあったのかと思っていただければそれでいい。
※1 「私たちの異文化体験」:塩澤正 編・著、1996年大修館書店発行
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