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【連載】文房具百年 #6「学習ノートとノートのようなもの」後編

たいみち

[毎月20日更新]

 前編は明治時代の石盤や手作り感あふれる和紙のノート、海外のノートを紹介しました。前編で紹介した「水書草紙」ですが、紹介したのとは違う形態のものが見つかったので、唐突ですがご紹介します。これなに?と思われた方は是非前編を読んでください。
http://www.buntobi.com/articles/entry/series/taimichi/007850/

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水書草紙。筆に水を付けて書く練習用の紙。A4サイズの紙が束ねてある。



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*表紙には表彰状や感謝状の縮小版が並べられていた。大正年ものもが多い。この水書草紙自体は大正3年のもの



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中には水ではなく墨を付けて書かれた文字も残っていた。



後編は現代の学習帳と同じような学習ノートや、雑記帳という表紙のデザインが素敵なノートの話です。またまた長文ですが、最後までよろしくお願いします。

学習用ノートの登場

 現代の「学習帳」に当たるものはいつできたのか。「明治大正大阪市史」には洋紙雑記帳について「明治35年には罫入のものも現る」とあり、これが学習帳の始まりであろう。更に明治42年には科目によって罫線のパターンを変えた「教育的雑記帳」が作られている。これを作ったのは「鍾美堂」という出版社の中村寅吉氏という人物だ。ちなみに明治35年頃の「罫入雑記帳」も中村寅吉氏の考案によるものらしい。

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*中村寅吉氏「大阪商工大観 昭和4年版」(1929年) 国会図書館デジタルコレクション



 その翌年明治43年に東京で文運堂が同様のものを作り始めた。文運堂は、銀座にあった出版社「博文館」の創業者が「石盤と石筆を使うときに出る石筆の粉が子供の健康に良くない」ため、ノートを普及させるために作った会社である。学習ノートを一足早く作り始めた二社がともに出版社を背景に持つところが興味深い。紙を調達し、印刷して綴る過程が出版と共通しているところがあるのだろう。
 実際に当時の学習用ノートがどういったものだったのか。大正時代の学習用ノートを見るととても地味である。


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*大正時代の学習用ノート。国語綴方帳と綴方草稿帳



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*綴り方草稿帳の裏表紙。「大正」の表記がある



 このノートは「日本学用品」製として販売されていたが、ノート自体にその記載はない。販売元に確認したところ、その店の在庫の記録に「日本学用品製」と記載されていたとのことで、恐らく日本学用品(株)の製品だろう。あとで「日本学用品」という会社が出てくるので、メモ代わりに記載しておく。

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*綴り方草稿帳は紙を重ねて中心をホチキスで止めている



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*国語綴方帳は紙を半分に折ったものを重ねて束ねてある



 国語綴方帳はA4サイズの罫紙を半分に折って綴じている。綴方草稿帳はやはりA4サイズの紙を重ねて真ん中をホッチキスでとめている。


もう一つおそらくこれも大正頃のノートだ。鍾美堂に続いて学習帳を作った文運堂のノートだ。

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*文運堂のよみかたノート。文運堂は何と言っても象が地球に載っているマークが魅力だ。



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*中はピンク色の縦罫線。紙を重ねて真ん中を綴じてある。



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*こちらは糸で綴じられている。



 学習用ノートを見つけると古そうなものを時々購入しているが、調べてみると昭和初期から戦時中頃のものが多い。文運堂の「よみかた」ノートは価格が5銭なので、おそらく大正頃と判断した。手元の資料「日本学用品株式会社」の大正7年「教育雑記帳定価表」と推定大正時代の「学生印教育学習帳内容見本」のノート価格がほぼ全部5銭だったからだ。

学習用ノートの見本帳

 大正頃の学習用ノートはこれくらいだが、見本帳や価格表がいくつかある。どれも貴重な資料だが、最初に学習用ノートを作ったとされる鍾美堂の初期の見本帳は、ノートの歴史上大変貴重な資料であると思っている。(ただし残念ながら私の所有物ではなく、文具のとびらの編集長である文具王 高畑さんからお借りしてきた。)

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*「教育的雑記帳製本体裁内容見本」鐘美堂教育用品部 1909年(明治42年)



こちらは学生印教育学習帳の内容見本だ。何年のものかは不明だがおそらく大正初期であろう。


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*「学生印教育学習帳内容見本」佐々木商店紙工部 推定大正時代



この2冊の見本帳の表紙と、綴り方草稿帳の表紙がどれも同様の紙質、色合いだ。これは当時の教科書の紙質を意識している。当時の教科書はこのようなねずみ色で厚手の紙を使用しているものが多かった。

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*「尋常小学 算術書第六学年児童用」日本書籍(株) 1912年(大正元年)



そしてそのポイントは丈夫さと「手垢対策」だ。子供が毎日のように手に取るものだけに、丈夫で手垢が目立たないというのが重要だったのだ。鐘美堂、学生印それぞれの見本帳を開くとまず一番にそのことが書いてある。(「手垢がつかない」ほうがより望ましかっただろうか、この時代にそれは無理だったのだろう。)

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*(右)学生印内容見本の表紙裏、(左)鐘美堂の見本帳の表紙裏。両方「手あかよごれの目立たぬよう」の記載がある



 見本帳の中には種類と金額、罫線などの情報がリストになっており、後ろのほうは実際の見本まで綴じられている。これを見ると縦罫線一つとっても点線が入っていて、マス目に近い使い方ができるものや細い列が添削用としてついているなどきめ細やかな工夫に驚く。

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*鐘美堂見本帳のサンプルページ。罫線や紙質だけでなく、対象者、筆記具など詳細な情報が掲載されている丁寧なつくり。



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*鐘美堂見本帳サンプルページ。音楽用や図画用など各科目が網羅されている



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*鐘美堂見本帳の裏表紙の裏側。「各学年ノ付録ハ此袋に入ル」とあるが何が入っていたのだろうか。



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*学生印見本帳のサンプルページ。点線や添削行のある凝った罫線のサンプル。



 また一部「石盤代用」と記載されているものがあり、もとは石盤が紙の代用であったが、いつの間にか紙が石盤の代用とされるほど石盤は普及していたのだ。なお、石盤は大正、昭和と徐々に使用が減りノートに取って代わられる。

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*鐘美堂の見本帳のサンプルページ。「石盤代用」の表記が見える




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*学生印の見本帳のサンプルページ。こちらも「石盤代用」と記載されている




 対象としている筆記具は明治42年発行の鍾美堂が毛筆と鉛筆、ペンであるのに対し、大正時代発行と思われる学生印は鉛筆とペンとなっているのも、時代の移り変わりがあって興味深い。

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*(右)鐘美堂見本帳、(左) 学生印見本帳より




 見本帳の、いろいろな紙質に小さく印刷された表紙の画像や凝った罫線。ノートを一冊ずつ集め、さらにそれを保管するのはとても大変だが、見本帳はそれがギュッと凝縮されており、見ていて楽しく、情報量も多いというとてもありがたい資料だ。

昭和初期から戦前・戦中頃の学習帳

 昭和になってからの学習帳はどのようなものだっただろうか。地味ではあるが、表紙がカラーのものや、枠線のデザインが凝っているものなどが出てきている。また、「●●県教育会」など団体名が入っているものが多い。

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*「学習帳」兵庫県教育会編纂、関西文具。1929年(昭和4年)



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*「算数帳」表紙に捺してある角印に「PTA」の文字がかろうじて読める。詳細不明、推定昭和初期頃。



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*「国史帳」文運堂。推定1930年(昭和5年)



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*「算術学習帳」児童教育研究会、東洋ノート製造(株)。飛行船はツェッペリン号(※1)がモチーフになっていると推測すると、昭和4年~数年の間に作られたノートである可能性が高い。

おしゃれ雑記帳

 学習用ノートの他に、中の罫線より表紙のデザインに凝った「雑記帳」が大正時代から存在した。学習用のノートほど勉強のしやすさを考慮したものではなく、中身は大体ザラッとした無地の紙である。そのかわり表紙のデザインは当時の「かわいい」「洒落ている」を意識しており、贈り物によく使われた組み合わせ文具(※2)の中にもだいたいセットされている。
 学習用ノートとしては今一だが、ちゃんと勉強に使われているものも多いので、この機会にいくつか紹介したい。なお時代が明確に特定できないこともあり、推定昭和初期頃まで含む。(※画像の転載・複製はご遠慮ください)

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*罫線もなく紙質もあまりよくないが、がんばって勉強で使い切られている雑記帳もある



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*(左)(右)日本学用品(株)、(中央)不明。



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*(右)文運堂、(左)研究社



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*ともにメーカー不明



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*(右)OS、(中央)不明、(左)アテナ


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*ともにメーカー不明。おそらく高島屋の組合せ文具にセットされていたノート


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*メーカー不明、「法量本村 和田商店」という店名と挨拶文が印刷されており、サービス品だったと思われる

学習帳とは

 そろそろ明治初頭から百年前に当たる大正時代頃までの「学習ノートとノートのようなもの」はだいたい紹介できたと思う。そしてもうひとつ、いわゆる学習用ノートとは異なる「学習帳」があったことをお伝えしたい。それは「学習帳」という。(誤字ではなく学習帳なのだ。)
 この原稿を書くにあたって「学習帳」ついて調べ始めると予想以上に資料が見つかったが、何やら様子がおかしいことに気づいた。「学習帳」のあり方や内容についての書籍が出版されていたり、教育関係の書籍で取り上げられ熱く議論されている例がいくつも出てきたのだ。調べるうちに「科目ごとの罫線が引かれたノート」の話ではなく別の「学習帳」の話であることがわかった。その学習帳とこういうものだ。

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*「小学国語学習帳」三友社、1922年(大正11年)



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*中は書き込みができる教科書といった内容。


 子供が書くところもあるが、問題やお手本が予め印刷されている。つまり今で言う「ドリル」だ。大正時代やおそらく昭和の戦前までは、学習帳というのは今でいうドリルにあたるものを指すことが多かった。今「学習帳」のキーワードで検索するとまずジャポニカ学習帳が出てくるし、通販サイトを見ても学習帳・練習帳はノートのことだ。初期の学習用のノートは「教育的雑記帳」(メーカーによって呼び名は異なる)だったがいつの間にか「学習帳」に呼び名が変わったということだ。
 このドリルの「学習帳」は著者がいる出版物であり、「副教科書」として扱われていた。主な教育内容は印刷されているのだから、教育者たちが「学習帳」について持論をいろいろ展開するのもごもっともである。
 学習用ノートもドリルの学習帳も教育の為のより良い方法の為の道具という意味では共通しているが、文房具なのかというと私の中の文房具の区分からははみ出している。そこでここはこういう学習帳もあるという紹介にとどめよう。

軍艦印の系譜

 少し話が戻るが、学習用ノートを最初に作った鍾美堂と中村寅吉氏について補足をしたい。中村寅吉氏は、その後大正5年に同業者の山本嘉蔵氏と篠原政吉氏と3人で「日本ノート製造(株)」(※3)を作った。その日本ノート製造(株)は日本学用品(株)と合併し「日本ノート学用品(株)」になった。その後は日章(株)、そう現在のアピカ(株)である。 アピカのホームページの「沿革」でも創業は「日本ノート製造(株)」ができた大正5年となっている。(※4)

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*「日本学用品(株)」のノートの裏表紙。フクロウが商標だった。のちに日本ノート製造(株)と合併して「日本ノート学用品(株)」となる。


 そこで以前より気になっていることは、最初に作られた学習用ノートの系譜はどこへ行ったのかということだ。中村寅吉氏が日本ノート製造を作ったあとも鍾美堂でノートが作られていたのか、それとも日本ノート製造に引き継がれたのか。
 鍾美堂は学習ノートを作り始めた当初は「教育部」が作っていたが、その後文具部ができており少なくとも大正10年まではあった。そこで引き続きノートを作っていたのだろうか。

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*鐘美堂文具部の広告、1921年(大正10年)官報(国会図書館デジタルコレクション)



 私はここで商標に注目した。鍾美堂の学習用ノート「教育的雑記帳」は軍艦印だ。
そして日本ノート学用品の作ったノートも軍艦印だ。つまり中村寅吉氏は日本ノート製造を設立する際に、ノートのビジネスと軍艦印を一式持って鍾美堂を出たのではないだろうか。

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*右は日本ノート学用品(株)のノート、左は鐘美堂の見本帳の裏表紙。ともに軍艦印が使われている



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*日本ノート学用品(株)のノート。会社名の下に「代表者 中村寅吉」とある。ノートにメーカーだけでなく代表者まで明記されているものは珍しい。鐘美堂の中村寅吉氏が間違いなく日本ノート学用品の代表者であった記録だ。




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*鐘美堂と日本ノート学用品(株)のノート。中央2冊は骨董市で一緒に見つけたので同時期のものと思われるがマークは同じではない。(会社名と「代表者 中村寅吉」はどちら記載されている。)右は戦時中、昭和10年代後半。「軍艦印」と記載されているがかなり簡略化されたイラストになっている


 これを見ると同じ「軍艦印」と言っても時代によって微妙に形が異なっているが、軍艦印は軍艦印だ。商標はブランドとその商品の系譜を示す重要なものだ。日本で最初の学習ノートは、軍艦印と共に日本ノート製造に引き継がれ、少なくとも戦時中までそのマークは継続された。軍艦印は途絶えたが、軍艦印のノートを作り続けた日本ノート学用品は、その後もずっとノートを作りつづけ、今はアピカとしてノートを作っている。日本で最初の学習用ノートを作った会社こそアピカではないか、そのDNAは現在まで続いている、そう思うのは大げさだろうか。
 この軍艦印の系譜は、今はまだ比較的容易に見つけられる痕跡だが、今後辿れなくなるだろう些細な証拠だ。それをどこかに残し、軍艦印の証人を増やしておきたかった。そう、ここまで読んでくださった皆さんが証人だ。

 そしてやっとこの回も終わりに近づいたが、最後におまけを一つ。今回もいろいろ調べたが、中村寅吉氏と一緒に日本ノート製造を立ち上げた2人、山本嘉蔵氏と篠崎政吉氏の情報が何も出てこなかった。かろうじて関連すると思えるのは、大正2年の文具界に掲載の「山本商店」「K.Y製本工場」という広告だ。山本嘉蔵氏の名前が「かぞう」であればイニシャルも一致するし、煙を吐く貴社のマークは鐘美堂の軍艦印に通じるところがある。曖昧な情報だが、こんな情報が後から何かにつながって、広がることもある。
 余談だが同じページに鐘美堂分店の広告もあった。ちなみに分店の商標も船だが軍艦とは書いていない。この商標の違いに何か意味が込められているのか。それもまたいつか分かるかもしれないし、何の意味もないのかもしれない。

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*右は鐘美堂分店の広告、左は「山本商店」「K.Y製本工場」の広告。1913年(大正2年)文具界


 「学習ノートとノートのようなもの」はこれにて終了。今回も長文に最後までお付き合いいただき深く感謝している。この連載も何とか半年経過したものの、まだまだ試行錯誤が続く模様だ。何卒引き続きよろしくお願い致したい。
 そして今年は大変な猛暑、みなさま、何卒ご自愛くださいますように。

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※1 ツェッペリン号 ドイツの飛行船。1929年世界一周の途中で日本の霞ヶ浦に立ち寄り話題になった。

※2 組合せ文具:大手文具店や百貨店が出していた文房具セット。きれいな箱に見栄えの良い文房具が何種類も入っている。鉛筆、コンパス、クレヨン、鉛筆削りなどと一緒に大抵洒落た表紙の雑記帳が入っている。

※3 日本ノート製造(株)ではなく日本ノート(株)と記載されている資料もあるが、アピカのホームページに表記を合わせた。

※4 アピカホームページ:http://www.apica.co.jp/corporate/history/index.html

プロフィール

たいみち
古文房具コレクター。明治から昭和の廃番・輸入製品を中心に、鉛筆・消しゴム・ホッチキス・画鋲・クレヨンなど、幅広い種類の文房具を蒐集。
展示、イベントでコレクションを公開するほか、テレビ・ラジオ・各種メディア出演を通して古文房具の魅力を伝えている。
著書「古き良きアンティーク文房具の世界」誠文堂新光社

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