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【連載】文房具百年 #41 「明治以降の日本の帳簿の話」

たいみち

大河ドラマ「青天を衝け」を見て

 毎週NHK大河ドラマ「青天を衝け」を楽しく見ている。この連載を始めてから、明治初期に日本にあった文房具について調べる機会が増え、それに従い当時の時代背景や登場人物の名前を知ることも多くなった。だが、実は歴史に詳しくなくぼんやり断片的に人名や出来事を認識するようになった程度なので、勉強がてら「青天を衝け」を見始めたわけだ。そしてドラマの舞台は幕末から明治に移り、国立銀行やアラン・シャンド、簿記の話などが出てきたのだ。これらはこの連載で、洋式帳簿について調べた中に登場しており、資料の字面から想像するだけだったイメージが、急にピントが合ったようにリアルなものになった。
 そうだ、そういえば洋式帳簿の始まりの頃の話だけ書いて、その後の帳簿の話を書いていなかったことを思い出した。いつか書こうと思ってそのままになっていた。

 というわけで、今回のテーマは帳簿だ。なお、前回の帳簿の話の時にも書いたが、一口に帳簿と言っても歴史は古く、種類は多く、専門性もあり奥が深い世界だ。この連載であまり昔のことや専門的なことを書くのは無理があるので、帳簿について私が興味を持ったことを雑談的に紹介しようと思う。とりとめのない話になりそうだが、どうぞお付き合い願いたい。

  ※前回の帳簿の話はこちら→ 「日本の洋式帳簿、その始まりの頃」 
   https://www.buntobi.com/articles/entry/series/taimichi/011276/




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*第一銀行史(第一銀行八十年史編纂室、昭和32年発行)より第一銀行本店の写真と、「青天を衝け」ノート
(ノートは別件で取材協力した際にいただいたもの)

大福帳

 江戸時代の日本の帳簿は、いわゆる「大福帳」である。自分自身は、おそらく時代劇で見て大福帳を知っていたのだと思う。すると、時代劇を見ない人は大福帳を知らないのではないか。それに「大福帳」を知っている人でも現物は見たことがないかもしれないと思い、骨董市で手ごろなものを入手した。

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 大福帳は骨董市に通っていると、比較的たやすく見つけることができる。時代も江戸時代から昭和初期のものまであるし、大きさや形、厚みもさまざまである。今でも多数残っているということは、当時一般的に使われていたということだ。
 「大福帳」とは全体を総括した元(もと)帳をさすので、いわゆる「大福帳の形」をしているものでも、表紙のタイトルを見ると「当座帳」「仕入帳」「判取り帳」などいろいろある。私が入手した大福帳のタイトルは「萬大福覚帳」と書かれているが、江戸時代の大福帳は単に金銭の出入りを記録するだけではなく、商売のすべてを書き記していたそうなので、この大福帳もそういった意味で「萬(よろず)」「覚書」という言葉が入っているのかもしれない。中の文字を私は読むことができないが、大福帳は商売上の情報を守るため、関係者以外は読めないように書かれていたと聞いたことがあるので、当時の人でも簡単には読めないのかもしれない。

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*大福帳の中身



 大福帳をはじめとするこれらの帳簿(まとめて和式帳簿という)は和紙を折って紐で綴じて作られている。専用のメーカーが存在していたわけでなく、商家が必要に応じて紙を調達して作ったり、紙屋が依頼を受けて作って納めたりしていたそうだ。
 明治23年の風俗画報には、土佐の雁皮紙を紹介する記事の中で、雁皮紙で作った帳簿は火事が起きたときにはそのまま池に投げ込んだとしても、あとで引き揚げて乾かせば、「わずかの損傷も憂うことなし」とある。雁皮紙に限らず和紙で出来た帳簿を火事の時に池や井戸に投げ込んで守ったというのは一般的に行われていたようだ。和紙+墨で出来ている道具ならではの扱い方で面白い。

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*大福帳は和紙を半分に折って綴じてある。二重になっている部分は間違えを補修した跡。



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*袋帳というタイプの帳簿。

洋式帳簿の登場

 前回の洋式帳簿の話で、明治6年の国立銀行設立時に複式簿記(現在使われている帳簿のつけ方)が入って来たことと、そこで使われるようになった当時の帳簿がどのようなものだったかを紹介した。だがその後、洋式帳簿は簡単には一般に広がらなかった。民間で帳簿を製造・販売するところもしばらくは現れず、資料によると明治12年頃に吉田帳簿製造所(のちの大林帳簿)が専業的に洋式帳簿の製造を始めたというのが、最初期に当たるらしい。
 明治20年前後になると「国文社」「竜雲社」「大阪活版」などが製造・販売を開始した。ただ、それでも洋式帳簿の使用はごく一部に限られ、洋紙を輸入・販売をする店ですら、自社の帳簿はまだ大福帳であったという。
 さらに明治32年には商報の第25条に「商人は帳簿を備へ之に日日の取引其の他財産に影響を及ぼすべき一切の事項を整然且つ明瞭に記載することを要す」と定められたが、この法令によって洋式帳簿の利用が進んだということはなく、大福帳などの和式帳簿に一切の事項を整然と書いただけだったという。

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*いち早く洋式帳簿専業で製造を始めたという吉田帳簿製造所のカタログ(明治26年)



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*カタログの前半は洋式帳簿の図と商品説明、価格。後半は洋紙見本となっている。

伊東屋とコクヨ

 明治30年代になって、帳簿の話に欠かせない2人の人物が動き出す。伊東屋の創業者 伊藤勝太郎氏と、コクヨの創業者 黒田善太郎氏だ。明治34年、黒田善太郎氏は大福帳など和式帳簿の表紙を作る「小林表紙店」に入店する。同じ年、伊藤勝太郎氏は銀座の勧工場(かんこうば。商品の陳列販売をする店が多数集まったショッピングセンターの原型のような場所)の博品館に洋品小間物の店を出店し、やがて隣にあった文房具店を買い取ることになる。
 その後、明治37年に伊東屋が開業、翌明治38年にはコクヨの前身「黒田表紙店」が開業する。余談だが、たまたま前回まで3回にわたって紹介したのが「明治38年の業界紙」なので、今もまだその頃のことをちょっと知った気になっている。そうか、あの頃に伊東屋もコクヨも創業したのか。
 ちなみに、伊藤勝太郎氏は博品館に店を出したのは27歳の時、黒田善太郎氏が黒田表紙店を開業したのは26歳の時と、ともに同じ年代で自分の店を出している。それに黒田善太郎氏は独立の際に「カスのような仕事しか残ってない」と言われ、伊藤勝太郎氏も「文房具などどこの店も片手間で売るようなものなのに、それを専業として銀座の大通りに店を出すなど無謀だ」と、周囲の人間からかなり止められたらしい。西と東で場所は大きく離れているものの、同じ時代、同じ年代の二人にちょっとした共通項があるところが興味深い。

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*伊東屋創業当時の店舗。(明治43年カタログの復刻版が入っている封筒の写真を拡大)。看板の下に「和洋諸帳簿」の文字が見える。

洋帳仕立ての和帳(和式帳簿)

 コクヨと伊東屋が帳簿にどのように関係したのか。まずコクヨは前身となる「黒田表紙店」で和式帳簿の表紙だけ作っていたが、明治41年には帳簿の本体部分も作り始めた。当時、表紙と中の帳簿部分は別々に作られていたのを、印刷と製本の下請けを使って一貫生産を始めた。
 一貫生産の対象となったのは、洋帳仕立ての和帳(和式帳簿)というもので、中身は罫線を印刷した半紙を半分に折り、表紙を付けて背や表紙に布クロス等を貼ったタイプだ。大福帳のように紐で綴じるのではなく、洋風の製本であったことからこのように呼ばれたのであろう。「大阪紙製品業界史」によると、洋帳仕立ての和帳が作られるようになった経緯は記帳法が発達したことと、帳簿製造方法の進歩によるものとある。だが、いつ頃からあったのか、いわゆる大福帳タイプからいきなり洋帳仕立ての和帳になったのか等は情報が乏しく調べられなかった。帳簿の形態の推移としては、おそらく無地の和紙を折って綴じる大福帳タイプの帳簿の次に、和紙に罫線を印刷し、紐で綴じるタイプがあったと思われる。伊勢吉という帳簿の老舗の明治時代のカタログには、和式帳簿のフォーマットの見本と共に「綴りが緩んだら直します」と案内が印刷されている。洋帳仕立ての帳簿に対する案内としては違和感があるので、おそらく紐で綴じるタイプだったのだろう。

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*東京・人形町の帳簿店「伊勢吉」の明治時代のカタログ。紙に罫線を印刷して綴じるタイプの和式帳簿の罫線見本。



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*伊勢吉は大福帳の表紙の文字がうまく、他店より売れたという。また、右ページの最後の記載に「綴ユルミ又は取クズレ」たときは修復するという案内があり、おそらく紐で綴じるタイプの帳簿を指していると思われる。



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*カタログには 1ページに4~9種類の罫線パターンの縮小見本が掲載されており、全体で200種類を超える。木版で作っていると思われるが、細かいところまで丁寧に作られており感心する。



 この洋帳仕立ての和帳(以下「和帳」と表記)は当時表紙・裏表紙・見返し・見出しを入れて100枚とするのが当時の業界の慣習であったが、黒田善太郎氏はそれを覆し、中身の帳簿部分だけで100枚の帳簿を作り「正百枚」として販売した。さらに筆記具が毛筆からペンに変わってきていることも捉え、ペンでも引っかからない紙を特注した。黒田表紙店の和帳は、値段は他店より高かったが、品質の良さでよく売れたという。これは単に一つの店の成功にとどまらず、当時の業界の活性化や大福帳タイプから一歩進んだ和帳への切り替え促進的な影響度もあったのではないかと推察する。

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*コクヨの洋帳仕立て和帳。サイズはB5。



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*表紙を開くとコクヨのマークの入ったページがある。マークからすると昭和に作られたもの。



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*コクヨの和帳は、小口に「百」と版が捺されており、「正百枚」を表している。



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*洋帳仕立ての和帳は多数の店で作られていた。右は、かけられている紙を外すと白い表紙となっている。「万年筆・毛筆両用」と書かれているところに時代を感じる。

伊東屋の奮闘

 伊東屋は開業時から洋式帳簿に力を入れていた。創業当初の店舗には「和漢洋文房具」と書かれた看板の下に、「和洋諸帳簿」が「学校用品類」と共に店名の「伊東屋」と並んで書かれている。今後の営業事務は洋式へ変わっていくべきという視点から洋式帳簿に着目し、その普及に努めた。それに和帳簿は既に人形町の伊勢吉など有名店があったことも影響したかもしれない。
 ただ洋式帳簿を普及させるのは簡単にはいかず、日本人が使い易い帳簿のフォーマットをいくつも考案し、30種類以上作ったが、それでも軌道に乗らず、70種類まで増やして対応したという。その甲斐あってか洋式帳簿の先駆者として扱われるようになった。
 明治43年のカタログを見ると、冒頭の「営業精神」というページでは「帳簿組織及び事務組織への立案」という言葉が、「価格低廉」「品質精良」といった言葉と並んでいる。また、カタログの最初に掲載されているのは洋式帳簿で、まず「洋式帳簿として完全なる資格」というタイトルと共に洋式帳簿の品質について自信に満ちた紹介から始まっている。
 なお、このカタログの翌年明治44年に開催された「日本文具教品博覧会」に伊東屋は洋式帳簿を出品して「進歩金牌」を受賞している。なおこの時の進歩銀牌は横浜の文寿堂がやはり洋式帳簿で受賞している。文寿堂も洋式帳簿の先駆者として伊東屋と並び称される有名店であった。

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*明治43年の伊東屋のカタログ。帳簿のページの最初にこのページがある。



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*伊東屋の罫線見本帳。大きな紙の折り畳み式になっており、両面に60近いパターンが掲載されている。

和帳から洋式帳簿へ

 伊東屋が進歩金牌を受賞した2年後の大正2年、コクヨの前身である黒田表紙店も洋式帳簿の発売を開始する。明治の初期の洋式帳簿は名入りの特注品がメインだったが、その後伊東屋など有力業者は下請けに作らせた既製品を自店で販売するスタイルになった。今でいうとブランド品に当たるだろう。黒田表紙店の帳簿も既製品であり、こちらはメーカーの既製品としての先駆けとなった。

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*第百三十八国立銀行の帳簿。名入り特注品にあたる。大正末期頃のもの。



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*伊東屋の大正2年のカタログでは「出来合い帳簿」を勧めている。30以上の種類を既製品で用意して販売していた。



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*コクヨの洋式帳簿。昭和20年~30年代頃のもの。



 そしてコクヨはここでも紙にこだわった。当時帳簿用の紙はイギリスから輸入していた紙を使っていたが、これを国産に切り替えようと王子製紙へ依頼し、王子製紙は10年かけて帳簿に適した紙を完成させた。
 大正になった時点では、まだ和帳や大福帳の和式帳簿が主流であったが、大正6年に税務署が帳簿のつけ方の改善を始めたことで潮目が変わった。帳簿のつけ方がバラバラで、税金の徴収がうまくいっていなかったため、税務署が全国で帳簿のつけ方講習会を開いて指導を始めたのだ。すると洋式帳簿の方が便利であることがわかり洋式帳簿の需要は急速に拡大した。そして黒田表紙店改め、黒田国光堂(大正3年に社名変更)もこの時流に乗って、生産体制を自家一貫生産へと切り替えていった。

その後とその他の話

 大正時代に洋式帳簿が広まった頃は和帳もまだ使われていたが、大正中頃を最盛期としてその後は廃れていった。とはいえ、すぐに全滅してしまったわけではなく、コクヨが和帳の製造を中止したのは昭和23年、そして今でも和帳は製造販売されている。(amazonで「和帳」を検索するとアサヒ他複数の和帳があるのを確認できる。)使われているのはごく一部であろうが、とても息の長い製品なのだ。
 洋式帳簿の推移の中で一つ付け加えておきたい登場人物としては銀座の文祥堂だ。大正元年設立後当初から帳簿を扱っており、早い時期から印刷技術を駆使して洋式帳簿を作っていたという。私の中で文祥堂は銀座の老舗文房具店の一つだが(現在文房具店はない)、その始まりが伊東屋と同じように、帳簿を主体としていたことは知らなかった。

 最後に伊東屋とコクヨの接点について記載して今回は終わりとしよう。伊東屋の百年史でこんな記述を見つけた。

伊東屋は工場を持っておりませんから、下請けに全部出している。紙は英国製、そして革表紙です。手間と金をかけている。それをコクヨの黒田善太郎さんという創業者が「そんな高いものをいつまでも売っているものじゃないよ。うちの製品を取り扱ってください。紙だって国産紙でいいものがある。」と勝太郎に進めた。
「いや、だめだめ。国産紙なんかだめ。」と言って、わが勝太郎は断った。そういうやり取りがあって、「そうか、そこまでおっしゃるんだったら、あんたのところの商品も置こうか」というのが、当事コクヨさんと伊東屋が商売を始めたきっかけだったと聞いております。(「銀座伊東屋百年史」より抜粋)

 ここに記載されている「商売を始めたきっかけ」がいつの頃かはわからない。ただ西のコクヨに東の伊東屋、メーカーと小売店、和帳と洋式帳簿と、同じ時代に同じ年代で同様に帳簿を扱ってきた二人の人物が、どこかのタイミングで接点ができて一緒に商売をするに至ったことを知って、なぜか連続ドラマがハッピーエンドで終わったような安堵を覚えた。


 さて、帳簿の話はこれでおしまい。今回帳簿について書こうと思い立ったきっかけの大河ドラマもあと 1か月ほどで終わる。帳簿自体が終わるということはまだないが、来年 1月に電子帳簿保存法が緩和され、帳簿の電子化が進むとみられている。つまり紙の帳簿はますます廃れていくということだ。帳簿の性質上、電子化されていくのは当然の流れだと思うが、これまでの歴史や関わってきた人物や店、過去の美しい帳簿を思うとこの変化に一抹の淋しさを感じる。

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*文祥堂の帳簿のカタログ。帳簿のほかにカードやインク、帳簿縦など周辺事務用品も掲載されている。大正9年発行。



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*文祥堂の包装紙。「文具と帳簿、印刷と図案」とキャッチフレーズに帳簿が入っている。おそらく昭和初期頃のもの。



≪参考文献≫
東京紙製品のあゆみ 東京紙製品卸商業協同組合 編集、 昭和52年(1982年)発行 

大阪紙製品業界史 大阪紙製品工業会 発行、 昭和55年(1985年)発行
紙商百年のあゆみ 東京都紙商組合 編集、 昭和46年(1971年)発行
市井奮闘伝 実業之日本社 編集、 昭和6年(1931年)発行
風俗画報 明治23年第19号  明治23年(1890年)発行
銀座伊東屋百年史 「銀座伊東屋百年史」編集委員会 編集、 平成16年(2004年)発行
コクヨ・七十年のあゆみ コクヨ(株) 70年誌編集委員会 編集、 昭和60年(1975年)発行
善太郎伝 コクヨ(株) 発行、平成26年(2014年)発行
論文「神戸高商の開校のころの会計帳簿* ―和帳から洋帳への転換―」岡部 孝好 2002年

プロフィール

たいみち
古文房具コレクター。明治から昭和の廃番・輸入製品を中心に、鉛筆・消しゴム・ホッチキス・画鋲・クレヨンなど、幅広い種類の文房具を蒐集。
展示、イベントでコレクションを公開するほか、テレビ・ラジオ・各種メディア出演を通して古文房具の魅力を伝えている。
著書「古き良きアンティーク文房具の世界」誠文堂新光社
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