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【連載】文房具百年 #23「日本の洋式帳簿、その始まりの頃」

たいみち

帳簿の種類

 確定申告の季節だ。新型肺炎の関係で、期限が4月16日に伸びたが、そうでなければ私がこの原稿を書いている頃は提出期限直前になるので、帳簿や領収書などと奮闘している人が山ほどいたはずだ。とはいえ、おカネの管理もデジタル化が進み、手書きで帳簿を付けるよりExcelや専用のアプリなどでデジタルに管理している人も増えている。そういう意味では帳簿も前回の「カーボン紙」と同様、じわじわと廃れている存在なのかもしれない。
 今回はその帳簿の話しだ。帳簿というと、ノートやルーズリーフで横罫の右のほうに金額を一桁ずつ書き込む枠が赤線と青線で印刷されているタイプを思い浮かべる人が多いだろう。あれが洋式の帳簿だ。洋式があれば和式もある。和式帳簿は和帳とも言い、縦罫線だ。和式の帳簿と言えば大福帳だって帳簿の一種だ。
 洋式和式だけでなく、書き方によって複式帳簿と単式帳簿※1があり、さらには用途で売上帳や金銭出納帳、仕訳帳などに分かれる。つまり帳簿といっても種類が多く、奥が深いのだ。今回のテーマを決める際にそのことにうっすらと気づいていたものの、何とかなるだろうと高をくくっていた。だがいろいろと調べはじめたとたん、その奥深さというか難しさにぶつかり続ける事態となった。
 さぁどうしよう。よし、今回は範囲を狭めて日本の洋式帳簿、それもごく初期のことについて書くことにしよう。

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西洋の帳簿

 洋式帳簿という名前の通り、洋式の帳簿は西洋から日本に入ってきた。西洋の帳簿はいつからあったのかというと、ローマ時代の古代彫刻の中に商業帳簿が彫られていることが確認されているそうだ。帳簿の歴史は古いと思っていたがそこまで古いとは思っていなかった。
 古代ローマ帝国や中世のベニスの商人が使用した帳簿は、この連載で扱うのは無理があるので、私が手に入れられた19世紀終わりから20世紀初頭の欧米の帳簿と資料を紹介しよう。

202003taimichi2.jpg*1880年の帳簿「CASH BOOK(現金出納簿)」。茶色い部分は皮、白っぽい部分はクロス製。




202003taimichi3.jpg*背表紙に帳簿の名称と共に、使用者の略称と思われる「E.E.S」と年代1880が印刷されている。



202003taimichi4.jpg*全ページにページ番号が振られている。



202003taimichi5.jpg*1856年頃の帳簿。表紙は紙で、金具がついている。



202003taimichi6.jpg*表紙を開くと美しいマーブル模様が施されている。




202003taimichi7.jpg*最初の数ページは中心部に別の紙を張ってから切り取ったようになっている。以降のページは未使用で、どのような使い方をしていたのは不明だ。



202003taimichi8.jpg*アメリカの文具卸店のカタログの帳簿のページ。1902年。5つのうち3つが最初に紹介した帳簿と同じタイプである。日本にはこのタイプは入ってこなかったようで、真ん中か右下のように色の濃いデザインばかりであった。



202003taimichi9.jpg*同じカタログの帳簿の罫線見本。



 帳簿のカタログにはよく罫線と紙の見本がついている。それを見ると基本的には100年前にすでに今と変わらない形が出来上がっていたことがわかる。

日本の簿記の始まり

 日本では洋式帳簿がいつからあったかという話をする前に、簿記のことを話そう。
 改めて「簿記」とはなにか。簿記とは「お金やものの出入りを記録するための方法」である。そしてそれを記録するものが帳簿だ。洋式の帳簿は洋式の簿記と一緒に日本にやってきた。では洋式の簿記はいつ日本に来たのだろうか。
 日本に最初に簿記を伝えたのはイギリス人のアラン・シャンド※2である。シャンドは幕末の1864年(文久4年/元治元年)に、インド・ロンドン・チャイナ・チャータード・マーカンタイル銀行横浜支店の支店長代理として来日した。※3その後日本政府が銀行経営の実務を導入するために、明治5年大蔵省紙幣寮(現在の国立印刷局)でシャンドを登用した。明治6年、日本で最初の近代的な銀行である株式会社第一国立銀行4が開業したが、銀行実務の習得はシャンドの指導によるものだ。

202003taimichi10.jpg*参考画像。前出のカタログより。欧米ではカギがかけられるタイプの帳簿も古くから存在した。



 帳簿から離れるが、シャンドという人物は一般的にあまり知られていないが、日本の金融事業に多大な貢献があり高橋是清や渋沢栄一との関係も深い。高橋是清は、10代の少年の頃にシャンドがいた横浜の銀行でボーイとして働いていた。高橋是清は日銀総裁や総理大臣、6度の大蔵大臣を務めた政治家である。そして日露戦争時にイギリスから戦費調達に成功しているが、その際にすでにイギリスに帰国していたシャンドの尽力があったという。5
 渋沢栄一は、国立銀行設立当時は大蔵省官僚で主導的立場にあり、開業時は総監役、のちに頭取も務めている。その関係でシャンドと渋沢栄一は親交が深く、晩年まで手紙のやり取りが行われていた。

202003taimichi11.jpg*参考画像。前出のカタログより。小さいタイプの帳簿。表紙の裏側ではなく、表紙自体がマーブル加工されているものも比較的スタンダードだったようだ。

「銀行簿記精法」と「帳合之法」

 シャンドは簿記の実務を指導するとともに、明治6年に「銀行簿記精法」を書き、同年12月に日本語に翻訳されたものが大蔵省から出版された。要するに帳簿の種類や書き方、使い方を記載した教科書で、今日使われている「簿記」という言葉もこのタイトルから来ているという説もある。
 この本は「日本で最初に簿記を紹介した」と説明されていることがあるが、ここにもう一つ「日本で最初」とされる書籍がある。福沢諭吉の「帳合之法」である。これは、ブライアン&スタット著の「Common School Bookkeeping」を福沢諭吉が翻訳したものだ。こちらも明治6年に発行されている。この2つのどちらが先かと言えば、「帳合之法」は明治6年6月発行であり、「銀行簿記精法」は12月なので「帳合之法」の方が半年早い。つまり、実務として簿記を最初に日本に伝えたのは明治5年からその任を担っていたシャンドと言っていいだろう。だが日本で簿記を紹介した「書籍」「文献」としては福沢諭吉の「帳合之法」が最初になる。そして次がシャンドの「銀行簿記精法」かというと、実はそうではなく加藤斌(かとうなかば)という人物が訳した「商家必要」6という書籍が同年10月に発行されており、「銀行簿記精法」は3番目になる。
 余談だが、このあたりの事を調べていてちょっと気づいたことがある。シャンドや「銀行簿記精法」について触れている古い資料に、福沢諭吉も「帳合之法」も出てこない。そして福沢諭吉や「帳合之法」について書かれている資料には、一切シャンドや「銀行簿記精法」が出てこないのだ。
 当時、当事者達の周辺も含めて、お互いのことを知らずに偶然同じことをしていたということであろう。「銀行簿記精法」を政府主導の「官」が進めたこととすると、福沢諭吉の「帳合之法」は民間の動きとなるのだろうか。いずれにせよ、同時期に同じことが官民全く別でそれぞれ進められていたことが興味深い。(ついでにくだらないことを言わせてもらうと、現一万円札の福沢諭吉と次の一万円札の渋沢栄一がともに日本の洋式簿記の最初期に関わっていることを知り「さすが一万円札の人達!」と関心と納得をした。)

202003taimichi12.jpg*「帳合之法」表紙。ブライヤント,スタラットン 著述、福沢諭吉 訳、1873年発行。国会図書館デジタルコレクション。

明治初期の洋式帳簿

 明治初期の洋式帳簿はどのようなものであったか。前出の第一国立銀行の社史「第一銀行史」7にはシャンドのことと共に当時の帳簿について詳しい説明がある。それを見ると最初からすべて洋式帳簿を使用していたわけではなく、一部は和紙に罫線を印刷したものを綴じて使っている。和風の帳簿に中身は英国の簿記に従った記載方法を、筆記具は毛筆で書いているという、いかにも過渡期を感じさせる状態だ。
 当時の帳簿の説明の中に洋式帳簿もある。明治6年から明治35年頃に使用されていた洋式帳簿についての説明を一部紹介しよう。

[「割賦記載帳」明治6年から22年まで使用]
 大きさは、縦46cm・横30cm・厚さ3cmとかなり大きなもので、表紙は黒色の強固なクロス、背及び隅は皮で被われている。用紙は洋紙、罫は印刷されていて、背に帳簿名を金文字で押した皮が貼られている。
 横罫は印刷されているが、縦罫は墨色の双罫で他の帳簿に比べれば粗悪な刷りであり後からの刷り込みらしい。横罫は間隔が1cm半もあって相当幅も広いものである。
 この帳簿は初期にはすべて毛筆で記入されている。数字は和字で横書きにしており、これは初期のものに共通の書き方であった。※8

[「地金売買帳」明治7年から8年まで使用]
 大きさは縦43cm・横32cm・厚さ4cm、表紙、背、等すべて皮を用い、表紙は黒色、背は濃緑、堅牢な製本である。背に金文字で帳簿名が印刷されている。(中略)
 この帳簿は割賦記載帳とほぼ年代を同うするが、数字は初めからアラビア文字を用いている。

[明治31年に使用された「当座預金元帳」]
 大きさは縦39cm・横30cm・厚さ6cm、表紙は黒のクロス、背及び隅に赤皮を使い、背には高い綴山が出ている。すこぶる豪華なもので現在表紙のクロスが破損しているが、そこに露出している表紙の芯にはボールが7枚重ねられている。見返しのマーブルも藍と濃緑の美しいもので、用紙の三方に波型マーブルが施されている。

202003taimichi13.jpg*「第一銀行史」に掲載されている帳簿の写真。



 このほかにも帳簿に記載された内容や記入方法が詳しく書かれており、どのような帳簿だったか想像が膨らむ。使われている筆記具が毛筆かペンか、また数字の漢数字・アラビア数字にまで触れている。明治6年や7年の洋式帳簿となると日本で最も古い洋式帳簿に当たると思われる。これらの帳簿が今もどこかに保管されているかは不明だが、是非残しておいてもらいたいものだ。
 「第一銀行史」は銀行の社史である。そこに帳簿のことをここまで詳しく書いてあるは予想外だった。ちなみにこの書はインクについても詳細の記述があり、過去に参考にさせてもらった。9第一銀行社史編纂チームの中にはきっと文房具好きがいたに違いない。その人に大いに感謝している。

202003taimichi14.jpg*参考画像。保有している帳簿の中に、背表紙が痛んでいるものがあったので、中を撮影。

国産の洋式帳簿

 日本国内で洋式帳簿が作られたのはいつだったのか。帳簿が民間の商店や会社で一般的に使われるようになり、ビジネスとして成り立つようになったのは明治の終わりころだが、国産の洋式帳簿が作られるようになったのは意外と早かったと思われる。
 明治6年、政府内の印刷施設を統合した「太政官正院印書局」に、製本技術の伝習のため当時横浜にいた英国人のパターソンが招かれた。印書局は後に紙幣寮と合併し、大蔵省印刷局となる。当時の洋式帳簿は前出の通り皮やクロスを使った堅牢な作りであり、作るには製本の技術がいる。このパターソンが洋式帳簿の作り方を指導したという明確な記録はないが、指導した内容は製本・装丁・罫引き・マーブル加工だったという。※10大蔵省管轄下で罫線を引いて製本するものと言えば洋式帳簿がそれに含まれないことはないだろう。
 それにパターソンから製本技術を学んだ人物の中に「洋式帳簿製作界の開拓者と呼ばれるようになった水野飲次郎※11」という人物がいたことが、複数の資料に記載されている。さらに、第一銀行史で紹介されている帳簿のうち、明治7年から使用しているものは、既に背表紙に日本語で帳簿名が印刷されており、輸入されたものとは考えづらい。
 資料や状況から推察すると、パターソンが招かれた直後から洋式帳簿はわずかながら日本で作られていたのではないだろうか。

202003taimichi15.jpg*参考画像。背表紙に金文字で印刷されている帳簿名。大正時代のもの。

マーブル

 なんだかあちこちに話が飛んだせいか、ほんの初期の話だけで随分長くなってしまった。帳簿の中で私が一番好きな部分の話をして、今回は終わりにしよう。
 前出のアメリカの帳簿の写真で、小口(本を閉じたときの背表紙以外のサイドの部分。紙の外側の縁。)にきれいなマーブル模様がついていたことにお気づきだろうか。また第一銀行の帳簿の説明にも「用紙の三方に波型マーブルが施されている」とあるが、それも小口部分のマーブル模様のことを指している。
 昔の洋式帳簿にはこのようなマーブル模様が入っていた。最初にマーブル模様のある帳簿を入手した時は単なる飾りだと思っていたのだが、ページ抜き取りや入れ替え防止のためと知り、美しいうえに明確な役割があることに感心したものだ。(抜き取りや差し替えをすると、マーブル模様が崩れるので判明する。)
 そのマーブル模様は日本独自の工夫なのか、海外の帳簿も同じなのかが知りたくて入手したのが最初に紹介した帳簿である。全部ではないが海外も小口にマーブル模様があるタイプが作られていることがわかった。
 また、マーブル模様が抜き取りや入れ替え防止のためであることを記載している資料をずっと探していた。できれば古い資料で確認したかったのだ。そしてごく最近入手した資料にそれがあった。大正頃のものと思われる「ローヤル帳簿目録」だ。これは帳簿のカタログで最後に帳簿の基礎知識が簡単にまとめられており、マーブル模様については次のように書かれている。


 マーブルについて

 帳簿の背以外の三方の裁断面に赤青黄色等の色彩文様を施してあります。これをマーブル(大理石文様、羽衣文様)と申します。一見無意味のようですがこれが完全であれば中身の途中の一頁を破っても色彩文様に狂を生じ帳簿の改変を防ぎ、単調な黒一色の帳簿に一脈の優美さを加え潤いを与えます。


202003taimichi16.jpg*「ローヤル帳簿目録」時代は不明だが、推定大正頃。森市商店(現(株)モリイチのスタンプがあり、そこから配布されたものであろう。)



 マーブル模様の意味が確認できたところで、今の帳簿には見られないマーブル模様をこの連載で紹介しておきたいと思い、帳簿の話にすることにした次第だ。自分のクセであるが、何かについてスゴイ!と思うとしばらくその「スゴイ」に属するものを集中的に集めてしまうところがある。そのため我が家には小口マーブルの帳簿がいつの間にかたくさん集まってしまった。せっかくなのでまとめてそれらを紹介しよう。

202003taimichi17.jpg*冒頭で紹介した1880年の帳簿の小口のマーブル模様。


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 ローヤル帳簿目録の説明にもある通り、表紙などの装丁が事務的な分、マーブル模様が引き立っている。
 なお、帳簿のマーブル模様は小口部分だけではなく、表紙と裏表紙の見返し部分にもある。これも中身をごっそり入れ替えようとすると模様がずれるのでわかってしまう、という入れ替え防止策であろうか。


202003taimichi20.jpg*表紙見返しの模様。



202003taimichi21.jpg*表紙見返しの模様でクモの巣柄。独特のセンスだ。



 第一銀行の帳簿の説明にもある通り「見返しのマーブル」は表紙を開いたときにハッとする美しさを備えている。私は事務用品のこういう控えめな美意識がとても好きだ。
 さて、今回はここで終わりだ。ただ、帳簿の話としてはずいぶん中途半端なところまでしか話せていないので、どこかで補足か続きの話をしようと思う。その時はぜひまたご一読を乞う。

※ 1 複式帳簿と単式帳簿:複式簿記に沿った複式帳簿、単式簿記に沿った帳簿が単式帳簿。複式簿記は1つの取引における取引金額を、取引の原因と結果の観点から借方と貸方[1]に振り分け、それぞれ同一金額を記録してゆく。単式簿記は簿記的取引をただ一つの科目に絞り記録・集計する記帳法。
※ 2 アラン・シャンド:アレキサンダー・アラン・シャンド。1844年(天保15年)2月11日 - 1930年。イギリス出身のお雇い外国人。
※ 3 政府に登用される前のシャンドの職について:「明治期に金融制度の確立等に貢献した人物」に関する研究調査」株式会社 エァクレーレン調査資料、「大蔵省印刷局百年史」第一巻参照。
※ 4 第一国立銀行:1873年(明治6年)に創設された日本最初の銀行。第一銀行、第一勧業銀行を経て、現在はみずほ銀行になっている。
※ 5 高橋是清とシャンド、及び日露戦争戦費調達について:「『御雇外国人』の殖産興業への寄与について」 土屋喬雄氏、「財務省今昔物語」 寺井順一氏 参照。
また、シャンドは1877年(明治10年)にイギリスに帰国し、自国で銀行に就職していた。
※ 6 商家必要:「商家必要」ウ・イングリス 著、加藤斌(かとうなかば)訳。明治6年10月発行。洋式簿記についての書籍で福沢諭吉の「帳合之法」につぐ2番目の書籍だが、知名度が低く、簿記関連の資料でも触れられていることが少ない。
※ 7 第一銀行史:第一銀行は※4「第一国立銀行」の明治29年以降の社名。「第一銀行史」は昭和32年に80年史として出版された。
※ 8 明治6年の洋式帳簿の数字と筆記具について:漢数字に毛筆から始まるが、途中でアラビア数字になる共にペン書きに変わっている。
※ 9 第一銀行史のインクの記載参照箇所:文房具百年「西洋の墨汁、東洋のインク」https://www.buntobi.com/articles/entry/series/taimichi/008313/
※10 パターソンについて:「大蔵省印刷局百年史」第一巻、昭和47年発行、「大阪製本組合史」昭和50年発行、参照。
※11 水野飲次郎:資料によって名前が「飲次郎」「鉄次郎」「欽次郎」とぶれがあり、どれが正しいか不明。

プロフィール

たいみち
古文房具コレクター。明治から昭和の廃番・輸入製品を中心に、鉛筆・消しゴム・ホッチキス・画鋲・クレヨンなど、幅広い種類の文房具を蒐集。
展示、イベントでコレクションを公開するほか、テレビ・ラジオ・各種メディア出演を通して古文房具の魅力を伝えている。
著書「古き良きアンティーク文房具の世界」誠文堂新光社
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