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【連載】文房具百年 #22「カーボン紙」

たいみち

カーボン紙とは

 カーボン紙をご存じだろうか。20代、もしかしたら30代前半くらいの方は、ご存知ないかもしれない。カーボン紙とは薄い紙にインクが塗られており、紙の上にインク面を下にして置き、カーボン紙の上から字を書くと、書いた部分のインクが紙に写されるというものだ。名前はカーボン紙が一般的だが、複写紙、炭素紙、タンサン紙など時代によって多少変化している。今回はこのカーボン紙について紹介しよう。


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*カーボン紙使用イメージ

日本におけるカーボン紙の始まり

 カーボン紙は1806年にイギリスのラルフ・ウェッジウッドが特許を取得したとのこと。このことは海外のWikipediaや複数のブログなどで紹介されているが、肝心の特許自体は探せなかった。だがここはそのまま進もう。
 日本におけるカーボン紙の歴史は意外と古い。「文具の歴史」1によると明治4年(1870年)に駅逓局2設置の際に、電信用として使用されたのが最初で、貨物の伝票用にも使われていたとされている。
 だが、ごく一部ではそれ以前に使われていたのではないかと思われる。安政4年から明治42年にわたって伊藤博文が書いた書簡が残っているが、国会図書館に保管されているのはカーボン紙によるコピーだ。(国会図書館の説明では「記述法: 印刷[カーボン]」とある。)手書き文字なので後にカーボン紙で転写したとは考えにくい。とすると安政4年(1857年)には伊藤博文はカーボン紙を使っていた可能性がある。西洋から来た文房具は、明治になって一般に流通する以前に江戸時代から一部の層で先行して使用されているケースがあるがカーボン紙もそのたぐいであろう。

202002taimichi3.jpg*書簡綴〔写〕. 伊藤博文書簡、国会図書館デジタルコレクション。伊藤博文幼名の「利助」が使われている。



 明治になって早々に使用され始めたカーボン紙だが、しばらくは一般に普及しなかった。国産業者としては明治23年には丸善工作部が製造しており、おそらくこれが国産の複写紙第一号と思われるが普及した様子はなく、その後の丸善のカタログにも自社製のカーボン紙の掲載は見当たらない。

202002taimichi4.jpg*丸善「Catalogue of books and stationery」明治23年(1890年)




 明治時代の状況については「東京紙製品のあゆみ」
3の記述が面白い。

 「これ(補記:カーボン紙)も洋式帳簿や手帳同様、なかなか一般の使用するところとはならず、しばらくの間は国産業者の出現を見なかった。ところが何かの事情で複写紙の輸入がストップ、業務に支障をきたした駅逓局では自前で複写紙を作らなければならない事態に追い込まれた。そこで苦心のすえ考案されたのが、いわゆる『炭素紙』である。これは松脂と松煙を種油で混ぜ合わせて紙に塗りつけたもので、いざ使用してみると、手は汚れる、写りは悪いでとても使用に耐えない。困り果てた駅逓局※4ではついに民間に製造を依嘱、日露戦争後には民間企業による『タンサン紙』の製造が始まっている。」

 輸入が止まり、慌てて自前で作ろうとしたもののろくなものが作れず、民間に委託することになった駅逓局の四苦八苦ぶりがよくわかる。炭素紙の原料は、松煙、松脂とともにさらっと「種油」と書いてあるが、大正初期の「万物製造法」※5の類をみると炭酸紙製造の材料に豚脂や牛脂が挙げられており、駅逓局手製の炭素紙の「種油」も同様のものを使っていた可能性がある。仮にそうだとすると、正直なところあまり手にしたくない代物だ。
 だが、この経緯があって民間の国産業者が登場し、輸入品と比べて低価格で供給できるようになったことは、一般への普及にプラスになったはずだ。そう考えると、駅逓局の苦労はあったものの、輸入が途絶えたことは結果からみてよかったといえるくらいだ。なお、カーボン紙が一般に普及した背景には、帳簿・伝票類が和式から洋式へ移行していったことも影響していることを書き添えておく。

202002taimichi5.jpg*アサヒ印局用耳白耐久性複写紙、大正末頃。「逓信局及び鉄道部後用品」と書かれている。「耳白」は縁の白い部分のこと。手が汚れないようにインクの付いていない部分を設けて扱いやすくした。

カーボン紙のメーカー

 カーボン紙の製造が駅逓局4から民間に移ったのは明治30年代だが、民間に移っても良い品質のものを作られるようになるには時間がかかったという。その後明治38年に小坂弥之助氏が考案した蝋引きのカーボン紙の登場で、手の汚れない実用に耐えるものが登場した。
 ここでちょっとした疑問がある。「文具の歴史」「東京紙製品のあゆみ」ともに小坂弥之助氏のカーボン紙のブランドを「ラーヂ複写紙」としているが、「ラーヂ」の商標は当時「ラーヂ万年筆」というブランドで万年筆を作っていた東京の酒井商店のものであり、小坂弥之助氏は「大学複写紙」だったはずだ。少なくとも大正11年の小坂氏名義の特許番号が印刷されているのは「大学複写紙」だ。「東京紙製品のあゆみ」は「文具の歴史」よりも後の発行であり、部分的に「文具の歴史」を参照していることが文脈から伺われる。ということは「文具の歴史」の記載が正しいかどうかだ。小坂弥之助氏が、明治38年時点でラーヂブランドの酒井商店にいたのだろうか。私は東京と大阪という地域の違いもあり、その可能性は低いと思う。おそらく「文具の歴史」執筆時に「酒井」と「小坂」が取り違えられたのではないだろうか。こんな細かいことをつつくのもどうかと思うが、この連載くらいしかこのことを気にする場はなさそうなので、一応言っておく。

202002taimichi6.jpg*ラーヂ複写紙の広告(左)と広告が掲載されている酒井商店のカタログ、大正5年(1916年)




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*大学複写紙のパッケージ。カーボンペーパー株式会社、大正~昭和初期頃。




202002taimichi8.jpg*大学複写紙のパッケージ裏。特許番号43205号が印字されている。




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*大学複写紙のカーボン紙。これも「耳白」タイプだ。



202002taimichi10.jpg*大学複写紙のパッケージに印字されている特許No.43205号。特許権者は小坂弥之助氏。

カーボン紙の輸入元と用途

 明治時代初期のカーボン紙の輸入元について触れておこう。明治の終わりごろはアメリカから輸入されているのだが、最初はフランスからとされている。
 カーボン紙の用途は大きく分けて2つあった。一つは伝票等の写しを取るため、もう一つはタイプライターのリボン替わりだ。通常のタイプライターは、金属製の文字をリボン越しに紙に打ち付けて印字するが、初期はカーボン紙と紙を重ねた上から文字を打ち付けていたのだろう。タイプライターはアメリカから輸入しているものが多く、それと一緒にカーボン紙も輸入されたことは想像に難くない。だが日本のカーボン紙の用途は伝票類の控えを取るところから始まっている。「文具の歴史」によると明治初期、通信関係はフランスの指導を受けており、伝票類の控えを取ることとともにカーボン紙もフランスから伝わったようだ。ちなみにWikipediaのアメリカサイト、フランスサイトそれぞれで「カーボン紙」を調べると、アメリカはタイプライター、ボールペンで使うもの、フランスは議事録の控えを作るのに使うものという説明が最初にされており、個人的に「つじつまが合っている」と納得した。

202002taimichi11.jpg*レミントン印カーボンペーパー。だがアメリカ製ではなく、国産品である。もとはアメリカから輸入されていたものを後に商標だけ残して国産化したのだろうか。詳細不明。




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*堀井謄写堂商品目録よりカーボン紙のページ。大正4年(1915年)。5種類のうち3種類がアメリカ製である。

カーボン紙の歴史から見えるもの

 今回の記事を書いていて思ったことがある。日本においてカーボン紙の始まりがタイプライターの印字用だったか、伝票等の複写用だったのかによって、カーボン紙の役割は大きく差が出たのではないだろうか。タイプライターの印字用としてのカーボン紙は、鉛筆の芯やペンのインクにあたり、拡大解釈をすれば筆記具の一部のようなものだ。
 だが伝票の控えを取る、伊藤博文のように手紙の控えを取るというのは、商習慣や情報の取り扱い方の変化が背景にある。それまでは顔見知りとの対面で行われていた商談や情報のやり取りが、西洋の商習慣が導入され、さらに通信や交通の発達で顔を合わせられない遠方の相手とのやり取りが増えていった。そこで形として同じものを双方で持つことが重要になっていき、それを実現するパーツの一つとなったわけだ。
 その役割があったからこそ、駅逓局は輸入が途絶えたときに何がなんでも作らなければならなかったわけで、結果的にカーボン紙という製品が長期間にわたって使用されるベースが作られた。これがタイプライターの印字用としてだけ使われていたら、国産カーボン紙が量産できるようになる前に、カーボン紙自体が消えていたかもしれない。カーボン紙が日本の商習慣を変えたとまではいかないが、時代の変化を支えたパーツの一つであったとはいえるだろう。

202002taimichi13.jpg*[参考]セントリバー複写紙、昭和20年前後。残っていたカーボン紙には書いた文字跡がきれいに残っていた。

消えてゆくもの・行かないもの

 さて、そろそろカーボン紙の話も終わりだ。唐突だがこの連載のテーマの選び方は割と場当たり的で、その時に「これだ」と思いついたものにしているが、ベースとなる選択肢の幅は、「身近ではあるが昔のことが知られていないもの」や、「自分自身が興味を持ったエピソードがあるもの」、そして「近い将来消えてしまいそうなもの」である。
 今回は「近い将来消えてしまいそうなもの」のつもりでテーマとした。実は昨年9月の「スポンジケースと仲間たち」もその部類であった。 
 だが、スポンジケースにしてもカーボン紙にしても、調べるとごく普通に販売されており、特に入手困難でもない。「消えてゆくもの」などという言い方は、かなり失礼だ。
 カーボン紙とペアで使われていた伝票は電子化で減少し、複写自体はノンカーボン紙が使われる時代になったが、まだ昔ながらのカーボン紙を使っている人たちがいる。そのことに何となくほっとするとともに、道具の価値や寿命は、最新式がベストと一概には言えず簡単に測れないものだと改めて思った次第だ。
 余談だが、明治38年にカーボン紙の品質改良に功績を残した小坂弥之助氏の興した会社は、「ユニオンケミカー株式会社」6として現在も営業しており、2020年2月21日には創立100周年記念式典が行われるようだ。その日はちょうどこの連載が公開される翌日に当たる。
 このちょっとした偶然を愉快に思いつつ、ユニオンケミカー社へ「ますますのご発展を」とそっとエールを送って、今回は終わりとしよう。


※1 「文具の歴史」:著者 田中経人、発行 リヒト産業(株)、発行 昭和47年。
※2  駅逓局:明治初期、駅逓・通信をつかさどった官庁。明治10年(1877)にそれまでの駅逓寮を改称。同18年逓信省の所管となり、同20年廃止。(コトバンクより)
※3 「東京紙製品のあゆみ」:東京紙製品卸商業共同組合組合史編纂委員会編、発行 東京紙製品卸商業協同組合、昭和57年
※4 駅逓局の時代:※2の通り駅逓局としては明治20年に廃止されている。明治18年より逓信省となっているので、業務としては駅逓局を引き継いでいるが、名称としては逓信省の時代に入っていると思われる。
※5 万物製造法:明治・大正時代に家庭でいろいろなものを作るハウツーものの書籍が多数発行されており、書名も「万物製造法」など似通った名前であった。メーカーが作成するより材料・手順ともに簡易的な内容であることが多いが、当時の製法から大きく外れているわけでもない。
※6 ユニオンケミカー株式会社:明治38年小坂弥之助氏が創業。 https://www.union-c.com/


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*[参考]複写紙パッケージ。推定昭和初期頃。

プロフィール

たいみち
古文房具コレクター。明治から昭和の廃番・輸入製品を中心に、鉛筆・消しゴム・ホッチキス・画鋲・クレヨンなど、幅広い種類の文房具を蒐集。
展示、イベントでコレクションを公開するほか、テレビ・ラジオ・各種メディア出演を通して古文房具の魅力を伝えている。
著書「古き良きアンティーク文房具の世界」誠文堂新光社
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