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【連載】文房具百年 #5「学習ノートとノートのようなもの」前編

たいみち

[毎月20日更新]

始まりは大正時代のノート

 4年ほど前だろうか、その頃お世話になっていた骨董屋さんから連絡が来た。文房具を見つけると連絡をくれて、希望をすると取り置きをしてくれていた。その時もいくつか興味深いものや素敵なものを紹介してくれたが、その中に大正時代のノートがあった。その当時はノートにはあまり興味がなく、昭和30年~40年頃のいわゆる「昭和レトロ」な学習帳を数冊申し訳程度に持っていたが、それ以上広げる気はなくノートについて考えてみることもなかった。そこに現れた大正時代のノート。そのノートはA5サイズの小ぶりなもので、表紙の絵は昭和の学習帳とずいぶん雰囲気が異なる。裏には時間割、中はざらざらした紙で無地と縦罫線だ。

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*大正時代の学習ノート。「NOTE BOOK」の文字が手書きなのはこの頃の共通点。後列の絵柄は左から「源義光」「日本武尊(やまとたけるのみこと)」「平重盛」。日本武尊は討伐シーンというなかなか刺激的な場面。



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*ノートの裏表紙の時間割




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中は無地と縦罫線



 これらのノートを見て「大正時代にもノートがあったんだ」と、少し考えれば至極当たり前のことが、とても新鮮な感覚で自分の意識に突き刺さった。それにその瞬間にノートだけではなく、大正時代そしてその前の明治時代をも急にリアルに感じられるようになった。言ってみれば「大正時代のノート」の出現により私の中で「ノート」の世界、そして「大正・明治時代」のとびらが開かれたのだ。

寺子屋と石盤

 そして今回はそんな大正時代のノートを紹介しようと「ノート」について調べてみた。だが、さかのぼって調べるうちにノートだけではおさまりが悪いので、ノートのように使われていたものも含めることにした。「子供が勉強をするときに書きつけるもの」というのが適当だろうか。
 一気に明治の初頭までさかのぼろう。学制で小学校が出来たのが明治5年なので、それまでは子供の教育機関は主に寺子屋だ。寺子屋では何に書きつけていたのかを調べてみたところ、「内外教育小史」(※1)という書籍に「机上に硯箱、手本、書籍を陳列し」という記述を見つけた。硯箱があるので紙に筆で書いていたのだろう。その紙はどういう紙だったのか。別の資料(※2)では「草紙」(紙を束ねて綴じたもの)や、「水書き草紙」(筆に水をつけて書くと文字が現れるが乾くと消える用紙)が紹介されていた。

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*水書草紙。表紙のラベルには「日向で書きまたは炭火に乾かさず、習ふて其儘自然にかわかすこと」「水にて書けば墨色に現れ乾けば消へて幾度も用ゆ」と記載。発売元「精華堂法帖店」



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*蛇腹式になっており、これは20面書くことができる。



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*実際に書いてみた。古いせいか文字の輪郭が少し残ったが、あまり時間もかからず消えた。



 余談だが、明治・大正頃は文具や生活雑貨などいろいろな道具について製造方法をまとめた書籍が複数出ている。大体が「自宅で作れるので作って売り、儲けるがよい」といった内容だ。正直なところ胡散臭いものも多いが、中に水書草紙を紹介しているものもあった。(※3)
 「アラビアゴムの溶液とニカワの溶液を混ぜ合わせて云々」という作り方や、販売方法は「学校に持って行って生徒間で使うように勧誘する」、「開業費十円、利益二倍」などと書いてあるのが面白くもあり、同時にこういった紹介をされるほど一般的な道具であったこともわかる。なお、その書籍で水書草紙の次の項は「秘密通信インキ製造販売法」だ。これもなかなか興味深い。
 話を戻すと、その後小学校の学用品には石盤が加わった。計算や書き取りなど繰り返し練習するものは、まともに紙を使うと大量に使ってしまう。それが書いては消せる石盤なら紙の節約になることから低学年の反復練習中心に使われていたようだ。

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*木枠のない石盤と石筆。(左側は破損)



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*木枠、計算用の珠が付いた石盤



 石盤は石でできていて木の枠がついている(ついていないものもある)。私は漠然と石盤は日本に昔からあったもののような気がしていたが、明治時代になってから輸入されたものだ。前々回の輸入鉛筆(後編)で「智慧の環」という書籍の中の1ページを紹介したが、同じページの中に石盤と石筆があり、実はそれを見て初めて石盤が明治になってからの輸入品であることに気づいた。

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*1872~73年(明治5~6年)「絵入り智慧の環」(国会図書館デジタルコレクション)。左上に石盤、その下が石筆。



 そして石盤が最初に輸入されたころの話が、横浜居地で商売をしていた人物「飯島栄助」氏の伝記に記されている。(※4)
「或る時、栄助は例の如く、外国商館へ新しい到来物を狩りに参りましたが、そこに何だか訳の分からない、瓦の様なものが、山の如くに台の上に積み重ねてあるのを発見したのであります。(中略)当時は雑貨商ですら、石盤の何であるかを承知しないくらいであるから、客の方でも知る訳はありません。けれどもそれに石筆を添えて売って見ると、ともかくも、字が書けて、それがすぐに消えるのであるから、珍しがって評判良く売行いたものであります。」
この「よくわからないけど、珍しいからみんなが買った」という所が、明治維新の活気が感じられて私は好きだ。
 更に当初は商店や役所など事務用で使用されていたとあり、「のちにはこれを小学校で使用するに至った」「明治5、6年には瞬く間に日本全国に普及したようだ」とも書かれており、日本での石盤の普及は、大量に輸入されてくる石盤をこの飯島栄助氏が東京・大阪の商人に取り次いだ成果であったらしい。
 ただ、同書で石盤の現物が輸入される以前から石盤の事は日本に紹介されていたとある。
「嘉永年間に中濱萬次郎という人が『漂流奇談』という本で、「米国にて物数を計算するに、石の板へ釘にて彫り付けて計算し、拭えばすぐに消える物ある」と紹介しており、これは石盤と石筆のことに違いないだろうとある。
 ここで蘇る教科書に載っていた物語の記憶。「萬次郎」「漂流」「アメリカ」、この人物はもしかして・・・そう、ジョン万次郎(※5)だ。今年の大河ドラマ「西郷どん!」にも登場している。中濱萬次郎はジョン万次郎の日本名であり、1851年(嘉永4年)に帰国し、その後、体験談が漂流記となっている。石盤を日本に紹介していたのがジョン万次郎だとは知らなかった。

明治時代の学用品

 さて、先に進もう。明治時代の学用品について調べたところ明治27年の資料が見つかった。これによると「書きつけるもの」は確かに石盤や「草紙」がある。そのほかに「筆記帳」「草稿帳」「清書帳」などもある。この「筆記帳」「草稿帳」といったものはどういうものだろう。

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* 1894年(明治27年)「新潟県尋常師範学校附属小学校単級成績報告書」(国会図書館デジタルコレクション)



「明治大正大阪市史」(※6)によると明治27、8年には洋紙を束ねて作った「雑記帳」があったとある。そのことを指しているのか、または和紙を束ねて綴じたもので、何に使うかを分けていただけだったかもしれない。例えばこういうことだ。

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*和紙で作られた学習用ノート



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*和紙を4つに折って束ねられている。折る前のサイズは書道用の半紙のサイズ(243×333mm)



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*紙の「こより」で綴ってある。



これは明治20年から34年までのノートだ。和紙を四つ折りにして束ね、穴をあけて紙の「こより」(細い紙をねじって作った紐)で綴じられている。骨董市で見つけたある一家族のものだ。名字は同じだが複数名の名前があるのは兄弟か親子かのノートだろう。
 当時はこれが主流だったのか、それともノートに近い雑記帳が多かったのか。今のところ他に資料を所有していないのでわからない。もっと古いノートを集めておけばよかった。
せっかくなので、中身も紹介しておこう。

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*明治27年の作文帳の一部は鉛筆で書かれていた。



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*「修身筆記」より。「人は傲慢の心を抑え我儘の心を制し」等々。普遍的に大事な言葉に反省の念が浮かぶ。今も学校でこういうことは教えられているのだろうか。



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*「歴史筆記」より。今年の大河ドラマでやっていたシーンが明治27年という120年以上前のノートに書かれている不思議さ。

海外の学習用ノート

 ここまで日本のノート(とノートのようなもの)についての話だったが、海外はどうだったのだろう。海外から日本に入ってきた石盤は、やはり海外でも使われており、石盤をつなげたノートも存在した。

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*推定1890年頃 A.W.FABER 石盤のノート



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*表紙の裏側は美しいマーブル模様、中は木枠の石盤が3枚ほど布製の背表紙で綴じられている。ただし背表紙の劣化の為、現在はバラバラになっている。



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*石筆を指すホルダーもついており、石筆自体も残っていた。



 ノートの形をしていなくても、石盤の枠をつなぎ合わせて、折りたたみミニ黒板のようになっているものもある。また日本では石盤とともにボール紙に黒板のようなざらざらした塗装を施した紙製石盤も広く使われていたが、同じようなものが海外でも使われていた。ただこちらはノベルティとして配布されたものを時々見かける程度なので、勉強道具としての使用は日本ほどではなかったようだ。

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*靴店のノベルティの紙製石盤。背表紙が取れてしまっているが、元はノートの形をしている。「Ralph’s Book」「1905」と書かれた跡がある。



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*手のひらサイズの紙製石盤。PELIKANのノベルティ。ついていた筆記具は石筆(鉛筆の形をしているが芯が石筆)。「手帳用鉛筆」サイズで鉛筆型の石筆は珍しい。(次の画像の右上が表紙画像)



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*海外の紙製石盤と日本の紙製石盤。右下の三田堂製の紙製石盤は明治時代の物なので、左上の靴店のノベルティと同時代のものと思われる。



 欧米はもともと洋紙とペン・鉛筆が普及していたので、もちろん普通の紙のノートも使われている。日本は明治維新後、生活自体と、生活の中で使用する素材や道具が変わって行く中で、ノートも変遷してきた。欧米はその変遷はもっと前の時代に一区切りついているのだろう。そのため100年前の欧米のノートを見ても、特に驚くところは見つからない。ほんの一例程度だが「違いがない」ことのサンプルとしてアメリカとフランスのノートを紹介しよう。

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*1907年前後、フランスの学習用ノート



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*ざらっとした質感の紙に4行ごとに太線の入る升目上の罫線。



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*文字がすべてカリグラフィのように美しく書かれているのは、恐らくノートの主のこだわりだろう。



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*科目ごとにノートを分けるのではなく、1冊のノートで全教科を使っているようだ。これがフランス流なのか個人の好みか、どちらなんだろう。



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*アメリカ 1922年のノート。左は単語帳、右がノート。



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肝心のノートの話は後半へ続く

 ノートの話と言っておきながら、ほとんどノートが出てこないまま、気付いたら結構な長さになっていた。この連載が回を追うごとに長くなることを少し反省しているところなので、前後編に分けることにした。だって調べたらいろいろ出てきてしまったのだ。仕方ない。
 今回の自分としての収穫は、日本に石盤を紹介したのがジョン万次郎だったとわかったことだ。そして調べている途中に、ジョン万次郎のお墓が東京の雑司が谷霊園にあることを知った。雑司が谷といえば、定期的に実施している文房具イベント「みちくさ市ブングテン」(※7)の開催地だ。私も毎回参加している。そんななじみ深い所にお墓があるとは驚きだ。
 次回雑司が谷に行くときは、お墓参りに行ってみようか。

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※1 「内外教育小史」1897年(明治30年)(国会図書館デジタルコレクション)
※2 「図説 明治百年の児童史」 1968年(昭和43年)
※3 「小資本成功法 : 最大有利商品製造販売」 1915年(大正4年)(国会図書館デジタルコレクション)
※4 「飯島栄助伝」1922年(大正11年)(国会図書館デジタルコレクション)
※5 ジョン万次郎:1841年漁に出て遭難し、アメリカ船に助けられ渡米する。10年後に日本に戻り、アメリカで身に着けた知識や技術を生かして多方面で活躍。(ジョン万次郎資料館 http://www.johnmung.info/john_syougai.htm
※6 「明治大正大阪市史」 1933-35年(昭和8-10年)(国会図書館デジタルコレクション)
※7 みちくさ市ブングテン:文房具好きの有志で定期的に行っているイベント。http://bunguten.jugem.jp/

プロフィール

たいみち
古文房具コレクター。明治から昭和の廃番・輸入製品を中心に、鉛筆・消しゴム・ホッチキス・画鋲・クレヨンなど、幅広い種類の文房具を蒐集。
展示、イベントでコレクションを公開するほか、テレビ・ラジオ・各種メディア出演を通して古文房具の魅力を伝えている。
著書「古き良きアンティーク文房具の世界」誠文堂新光社

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