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【連載】文房具百年 #8「西洋の墨汁、東洋のインク」前編

たいみち

[毎月20日更新]

インク瓶からのインクの話

 前回の「インク瓶、色々」は御覧頂いただろうか。簡単にまとめるつもりが、とても長ったらしくなってしまい、サラッと触れるはずのインクの話を全く入れられなくなり、今回にはみ出したわけだ。「長ったらしい」と読む気を削ぐようなことを言っておきながら言うのもなんだが、まだご覧頂いていない方はぜひご一読いただいたい。いや、読まずとも写真を眺めていただくだけでもありがたい。
http://www.buntobi.com/articles/entry/series/taimichi/008146/

インクの種類

 さて、今回のインクは印刷用やスタンプインクではなく、筆記用のインクについてだ。筆記用インクについては、最近は「インク沼」という言葉があるほど、好きな方や詳しい方が多い。私もこの機会に少し勉強しようと手元の資料で調べては見たものの、成分や製造方法などの化学的な話になると文系人間としてはなかなか楽しむのが難しい。そこでここは無理をせず、私なりにオモシロイと思ったことで構成することにした。

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*インク製造会社の作成した小冊子。インクの成分や製造方法についての説明が記載されている。左:並木良輔著(昭和8年)、右:サンエスインキ(年代不明、推定昭和初期)



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*サンエスインキの小冊子の説明。比較的わかりやすい記述ではある。



 インクの種類について簡単に触れておく。筆記用のインクについて調べると、だいたいブリューブラック(Blue Black)の説明がでてくる。書いた時点では青いが、時間が経つとインクに含まれる鉄の成分が酸化して黒くなり、耐水性が増すインクで、Blue Blackという名称はその色の変化から来ているという。明治時代の日本のカタログに掲載されているインクにはすでにBlue Blackがあるので、インクの輸入が始まった当初から日本に入って来ていたと思われる。なお今もインクの種類でブリューブラックは存在する。(現代の品名はブリューではなく、シンプルにブルーブラックとなっている)

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*色々なメーカのブリューブラックインキ。左:プラチナ萬年筆、中:サンエスインキ、右:メーゼンインキ


 以前は使われていたが今はない種類のインクとしては、コピー用のインクがある。前回のインク瓶の際にも少し触れたが、コピー機やカーボン紙が使われていなかった時代、コピー用インクというものを使って複写をしていた。(※1)このインクは、使用感は通常のインクと同じだが、粘性が異なる。水に流れず、形が崩れないようにできているのだろう。
 コピーを取る方法は次のような手順だ。(※2)

①コピーを取る元の書類をコピー用インクで書き、乾かす
②元の書類の下に油紙を敷く(挟む)
③コピー用インクで書いた部分を水刷毛で濡らす
④吸い取り紙をかぶせ、余計な水分を吸い取る
⑤適度な湿り気になったら、湿った吸い取り紙の上にも油紙をのせる
 (油紙と油紙の間に湿った原紙と吸取り紙が挟まっている状態)
⑥⑤をコピー用のプレス機に入れ、締め付ける。(ここで元の書類の内容が湿った吸い取り紙に写る)
⑦コピー先の紙を湿った紙の下に挟み、プレス機で締め付けると、元の書類の内容がその紙に写し取れる

 複数枚のコピーをとる場合は⑦を繰り返すが、当時の用途は複数の人に同じことを知らせるための配布物ではなく、売買や約束事などの重要な書類や書簡について、後から内容の確認をするための控えの作成なので、1枚か2枚のコピーが取れればおおよそ事は足りたようだ。

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*大正時代のカタログに掲載されたコピー用インク。福井商店(現ライオン事務器)営業品型録、大正10年(1921年)



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*原紙から写し取るために圧力をかけて「締める」道具(右ページ)と付属品(左)。丸善文房具目録、明治43年(1910年)頃



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*コピープレスでコピーを取っているところ。書き写すよりは簡易な方法だったが、かなり手間のかかる作業だった。
 「最新事務所経営法」著者兼発行者:黒沢貞次郎、明治40年(1907年)



 このコピー方法を使ったと思われる複写簿(複写式便箋)がある。全体的に濡れた跡があり、インクも滲んだようになっているので、「濡らして締めた」という作業を行ったものに間違いないだろう。

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*大正時代の複写簿。通常の厚さの紙と薄い和紙交互に綴られている冊子。



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*病院への書状や計算書のような内容。右は、原本とコピー両方残っている。



 
この方法は、手書きで書き写すより間違いがなく、手間が省けるということで使われていたが、より簡単なカーボン紙による複写が普及してきたことで、徐々に廃れていった。

日本のインク製造と販売の歴史

 コピー用インクなど時代を経てなくなったインクもあるが、インク自体は明治から大正・昭和と、時代が進むと共に広く普及し、インク製造業も多数存在した。ではいつからインクは日本で製造・販売されていたのだろうか。商品として輸入されたのは明治5年にフランスから入ってきたのが最初とある。国産は、明治11年に丸善が安井啓七郎氏という人物の製造したインクの販売を開始している。また、渡辺隆氏という人物が、明治13年に朝日新聞に簿記用インクの広告を掲載している。渡辺隆氏については明治6、7年頃からインクを作っていた説もあるが詳細は不明だ。どちらにしても丸善の安井敬七郎氏と渡辺隆氏が国内インク製造販売の最初期に当たるだろう。

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*丸善のインク広告。明治23年頃。安井敬七郎氏が丸善に入社後だが、まだインクの商品名は「YASUI」である。
 「丸善社史」、昭和26年(1951年) 



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*明治13年(1883年)朝日新聞に掲載された「渡辺隆」氏の簿記用インキ広告
 「新聞広告100年」朝日新聞社、昭和53年(1978年)



 その後、明治17年にライトインキの篠崎又兵衛氏がインク作りを始め、翌18年には丸善に安井敬七郎氏が入社し自社でインク製造をするようになった。だが、明治後期まではインクの使用者は限られており、大量に売れたわけではない。海外のインクとの品質の差もあったろう。篠崎又兵衛氏の立身出世話を読むと、17年に創業した当時にインク製造業は数社あったが、その後専業の製造業者は相次いで閉鎖し、篠崎氏自身もインク製造業専業でやっていけるようになったのは創業から12年後だったとある。(※3)

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*左:篠崎インキのライトインキ、右:丸善アテナインキ。この2社が国内インク製造の初期から参入し、長期に渡ってインクを製造してきた。

明治9年の布告

 国産インクが製造されるようになる少し前、インクについて国からの発令があった。明治9年の大政官達だ。大政官達とは、明治時代初期に最高官庁として設置された太政官によって公布された法令の形式を指す。
 こういうものだ。

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*明治9年に国から全国へ発布された大政官達。名古屋裁判所岡崎市所が保存していたもの



「自今公文ニ洋製ノ墨汁(インキ)ヲ用ヒ候儀不相成候條此旨相達候事
但洋文ヲ洋紙ニ書スルハ此限ニアラス」

これは日本のインクの歴史を調べると、よく登場する有名な法令である。

「公的な文書にインクを用いてはいけない。ただし洋紙に洋文を書く場合は除く」

 当時インクの主要な使用者は役所や銀行であり、公的な文書を多く扱う人達である。そこに対して「公的な文書ではインクを使うな」と国からお触れを出したということだ。この布告ではインクの使用は抑えきれずに、徐々に普及したとのことで、明治41年にこの布告自体も取り消されたが、この法令によってインクの普及に多少のブレーキが掛かったのは否めないだろう。
 余談だがこの画像の布告は私が入手することのできた本物の書面である。オークションで、いつもは行わない検索を間違って行った際に見つかったものだ。こんなものが出てきたことに驚いた。この連載に登場したい文具や資料は多いようで、これも自分から出てきてくれたようなものだ。国から全国の府県に配布された500部ほどのうちの一つで、名古屋裁判所岡崎支所のものだったという。

 この法令の意味と当時の様子について、インクを使う側だった第一銀行(※4)の社史に記載がある。
まず、洋製の墨汁について「通俗文具発達史」(※5)では通常のインクを指しているが、第一銀行では洋製の墨汁=コピー用のインクを指した。本支店間のやり取りの書状をコピーインクで書き、控えをとっていたのだ。この部分については社史にわざわざ「通俗文具発達史」の文章を引用して説明している。
 またこの法令について「文具の歴史」(※6)では「当時の公文書は和紙を使っていたので、インキを用いることは無理で、禁止の法令ももっとも」とあるが、第一銀行では和紙、または洋紙にコピー用インクで書いたものを和紙に写し取っていたとあるので、「和紙だから無理」も正しいとは言えない。
 なお、第一銀行ではこの法令に先駆けて、国にコピー用インクの使用を申請しており、布告後も改めて申請し継続使用を認められている。ただ、コピー用インクを使用していたのはあくまで書状類であって、証券や小切手、通帳には墨と毛筆を使っていた。(筆記具という意味ではコピー用インクも毛筆を使って書いていた。)
 大正2年に同銀行横浜支店で、インクで書かれた小切手をインク消しを使って改ざんされた事件があった。そのためインクへの切り替えにはかなり慎重であり、昭和14年まで証券類へのインク使用はしていなかった。
 この第一銀行のインクに関する記載は、おまけ話の扱いとはいえ、社史に掲載するくらいだから、それなりに印象深い話だったのだろう。こういった使い手側の実状はなかなか資料に残らないので、とても興味深い。

証券用インク

 インクの種類をもう一つ紹介しておこう。証券用インクというものがある。大正6年に篠崎又兵衛氏が開発した「消せないインク」である。「通俗文具発達史」ではこの製品を「インキ界空前の大発明」と絶賛しており、墨からインクへの移行に慎重だった第一銀行も、インクへの切り替え後一時期使っていた。
 なお、今でもパイロットから「インキ証券用」という商品が販売されている。固まりやすい性質らしく、「つけペン、筆用 ※万年筆及びデスクペンにはご使用になれません。他の用途にご使用の場合は、不具合の生じることがあります。」と注意書きがある。証券用インキの存在は知っていたが、今でも販売されていること、インクによってそんなに性質が異なるのは正直全く知らなかった。

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*篠崎インキ製造のチャンピオン証券用インキ。スポイトも箱に一緒に入っている。なおこの瓶は昭和のもの。「絶対に消されぬ」の主張が目を引く。



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*ペンの扱いや混ぜてはいけないインクの種類など注意事項がインクの特徴を表している。


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*証券用インクの箱。記載されている特許番号は昭和5年のもの。



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*箱の蓋にも他のインクと混ぜるなという注意書きが記載されている。

日本のインク黎明期

 明治5年にフランスから輸入される前のインク事情はどうなっていたのだろうか。江戸中期にオランダ人が持ち込んだのが最初とされている。1700年台(おそらく前半)には蘭学者である青木昆陽氏(※7)の「昆陽漫録」の中に、「阿蘭陀墨」というタイトルで簡単に製造方法が記されている。
 さらに詳しい製造方法としては、1837年(天保8年)から1847年(弘化4年)の間に書かれた「舎密(せいみ)開宗」に記載がある。この舎密(せいみ)開宗は日本初の体系的な科学書で、オランダから来た書籍の翻訳と著者の実験に基づいており、全21編からなる。

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*「舎密開宗」のセイミはオランダ語の化学を意味する「Chemie」から来ている。日本化学会認定の化学遺産第一号。宇田川 榕菴著、早稲田大学収蔵。



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*舎密開宗に記載されたインクの作り方。タイトルの「墨汁」の横に「インク」と記載されている。


 硫酸鉄に没食を和すれば、酸化鉄云々。化学書なので「なんとか酸」や「なんとか液」、「和する」や「分離」という言葉が並んでおり、私にとっては難解だがインクの製造方法に間違いない。なお昔のインクは種類にもよるが「没食子(もっしょくし)」「五倍子(ふし)」という植物を原料としているものが多く、「没食子」または「五倍子」と「墨」というキーワードが並んでいたら、まずインクの話だと思って間違いない。舎密開宗には「没食」という言葉が出てくるし、「昆陽漫録」では「五倍子」が使われている。

 実際に江戸末期にインクを自作した記録を見つけた。石黒忠悳(ただのり)氏、幕末に医学を学んだ医師であり草創期の軍医制度を確立した人物だ。その自伝「懐旧九十年」(※8)に、当時医学を学ぶのに、蘭学の書籍が貴重で手で書き写すしかなく、紙やペン、インクを自作した様子が書かれている。
「インキは、これはギュラルジンの製造化学書を参考して、緑礬(りょくばん)や没食子でインキを創り、それらを用いて初めて謄写に取り掛かるのです。」とある。緑礬は硫酸鉄(Ⅱ)という種類の鉱物で、大辞林ではインクの原料に用いると説明がされている。(大辞林第三版 「硫酸鉄」より)ペンは、羽根問屋から太い羽をもらってきて、先を削り二つに割ったもの、紙は土佐半紙にミョウバンと膠を煎じて塗り、貝で磨いてなめらかにして使ったそうだ。
 このインクを作って学んでいた時期は明確な記載がないが、1865年頃と推測される。間もなく江戸時代も終わろうという頃、手製のインクやペンでオランダの医学書を熱心に書き写す光景は、ドラマの1シーンのようではないか。NHKの大河ドラマで次回幕末が舞台となる際には、この石黒忠悳氏を登場させ、鳥の羽を削り、没食子からインクを作るシーンを入れてもらいたいものだ。

西洋の墨汁、東洋のインキ

 さて、今回も結構な長さになってしまった。ここで一区切りとしよう。お気づきだろうか。タイトルに有る「西洋の墨汁」はインクのことだ。今回この連載のために当初「インキ」をキーワードにして調べ始めたが、なかなか古い情報が出てこなかった。途中で明治の初期の頃はインキではなく「墨汁」という名前だったことに気づき、調べ直して一気に情報が集められた。物の名前とは絶対的なようで、実はそうでもないのである。
 もう一つ、お気づきだろうか。
「東洋のインキ」の話は?
はい、これは次回へ。今回もまた十分に長くなってしまったので。インクの話で3回も引っ張るのは抵抗があるが、よろしければ次回も是非読んでください。
 そうそう、そのまえに、今回もここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

※1 コピー用インクの他にコピー用の鉛筆もあった。濡らすとインクになり、コピーを取ることができた。
※2 コピーインクを使ったコピー方法は次の文献を参照。丸善文房具目録、明治43年(1910年)頃、「商業機械使用法」早稲田大学出版部、年代不明

※3 「赤手空拳市井奮闘伝」実業之日本社、昭和6年(1931年)参照。ライトインキは明治後期から昭和戦前にかけて繁栄したインクメーカー篠崎インキ製造の商標であり、代表的な商品名。
※4 第一銀行は明治6年(1873年)第一国立銀行として創立した日本初の株式組織の銀行。第一銀行になった後、第一勧業銀行となり、現みずほ銀行。初代頭取は武士から官僚、実業家となった渋沢栄一。
※5 「通俗文具発達史」著者:野口茂樹、紙工界社、昭和9年(1934年)。「文具の歴史」と並んで文房具の歴史の参考書とされることが多い。
※6 「文具の歴史」 著者:田中経人、発行:リヒト産業、発行:昭和47年(1952年)
※7 青木昆陽は江戸中期の蘭学者。「昆陽漫録」は日常的なことが幅広く書かれている随筆。
※8 「懐旧九十年」著者:石黒忠悳、博文社、昭和11年(1936年)

プロフィール

たいみち
古文房具コレクター。明治から昭和の廃番・輸入製品を中心に、鉛筆・消しゴム・ホッチキス・画鋲・クレヨンなど、幅広い種類の文房具を蒐集。
展示、イベントでコレクションを公開するほか、テレビ・ラジオ・各種メディア出演を通して古文房具の魅力を伝えている。
著書「古き良きアンティーク文房具の世界」誠文堂新光社

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